私は研究分野は原子核理論であり、さらに詳しく言うと原子核構造論である。
原子核理論は原子核の性質を核子(陽子と中性子)の集合体として理解する低エ ネルギー分野と核子を基本粒子とするのでなく個々の核子自体の構造をも考え るて原子核の性質を理解する(あるいは原子核の性質から核子の構造について 考える)中間エネルギー分野からなる。
低エネルギー分野はおおまかに構造論と反応論に分けられる。構造論は1個の 原子核の静的性質と少し励起した場合の運動形態を論ずることを目的をする。 反応論は原子核と原子核が出会ったときに何が起きるかを論ずる。
【注釈】なお、原理的には構造がわからないと反応は論じることができないと 思われるかもしれないが、反応の記述の精度に応じて必要とされる構造の精度 も変わるので、構造と反応の研究は並行して進めていくことができるのである。 粗雑な定性的議論にもとづいて勝った負けたのギャンブルまがいの主張を繰り 返す例えば経済評論家などとは違い、自然科学はおおむね定量性が あることが特徴である。
中間エネルギー分野はハドロン(hadron)物理とも言う。ハドロンとは核子、中 間子(meson)、核子の励起状態、などの(クオーク quark でできている)粒子の 総称である。中間エネルギー分野は、核子に加えてそれ以外のハドロンをも取 り入れた模型によるアプローチと、核子の構造を(クオークを記述する)量子色 力学というより基本的な理論体系で扱おうと努力するアプローチに分類できる。 なお、「高エネルギー分野」はどこにあるのかといえば、それは、1970年代に 原子核理論/原子核物理学から明確に分れて素粒子論/素粒子物理学/高エネ ルギー物理学という独立した分野を形成したのである。 現在、素粒子論は原子核理論の約4倍(数値要確認)の研究者数を擁している。
物理学の基本的な分類法は、研究対象による、物性物理学、原子・分子物理学、 原子核物理学、素粒子物理学などへの分類であるが、副次的なとらえ方として、 まず、実験物理学と理論物理学とに2分割するという見方も有効である。とい うのは、物理の理論は、わずかの修正でさまざまな対象に対して適用可能にな ることが多いからである。 (適用可能性が広いということは、研究初期の段階の 原始的で単純な模型であることの証拠に過ぎないという見方もできるが。) (量子カオスの性質はたいてい3準位模型で理解できるという話を聞いたような 気がする。) 例えば、量子力学的にもとづいて系の構成粒子の振るまいを調べることは(量 子多体論という)、粒子を核子とすれば原子核物理を研究することになるが、 粒子を電子とすれば粒子数が有限なら原子・分子物理を、無限なら物性物理の 研究になるのである。有限か無限かで理論の道具だてが違うので、そこは区別して、 原子核理論は有限量子多体系の理論と言っておけばほぼ適切である。
【専門】 十個〜万個くらいの原子のかたまりをマイクロクラスターというが、この対象 に対しても、原子核の理論がよく応用されてきた。 また、最近では、半導体デバイスとして量子ドットというものが研究されるよ うになって、原子核構造理論研究者は有限量子多体系の対象が増えた(しかも 実用分野で)と喜んだのだが、今のところドット内の電子間の相関はその分野 の研究者の問題意識にはあまりのぼってこないようで(効果が小さいので測り にくい、またたぶん実用的意味が考えつかない)、まだ我々が役立てることは あまりなさそうで残念である。
【専門】 ただし、この世界には無限に広がった核子の系(核物質)というのも存在している。 中性子星 は核物質でできており、巨大な原子核と言ってもよい。 地上の原子核の性質にもとづいて作り上げられてきた現在の原子核理論による 予想では、中性子星の表面では、中性子のガスの中に原子核が浮いている状況 にある。その下にはスパゲッティ、ラザニア、マカロニグラタン、なんとかチー ズ(気泡のあるチーズ)状の構造があって、やがて中性子、陽子、電子がある割 合で空間的に一様に分布した物質になる。また、さらに深くなると圧力で核子 の性質が変わって、ああなるだろう、いや、こうなるだろう、という色々な予 想がされている。
原子核が、同じ有限量子多体系である原子・分子の電子系と大きく異なる特徴 は、後者が核のクーロン場に支配されているのに対し、前者には中心となるも のがないことである。しかし、「まとめ役がない→無秩序状態」という図式は 当てはまらず、秩序から 無秩序 にわたる実に多彩な側面を見せてくれる系である。
【専門】 原子核構造論研究者には量子カオスの研究に手を染めた人がかなり ある。1割に達するかもしれない(数値要確認)。私もかなりの量の文献を読ん だ。実はかなりの数のプログラムを自作し、計算もかなりの量を行なった。
具体的な研究テーマとしては、まず、原子核の「形状」がたいへん面白いと思 う。「飽和性」の為に、原子核は比較的明瞭な表面を持ち、したがってその形 状を云々できる。この形状はマクロとミクロの2つの要因のかねあいで決まる。 マクロな要因とは、密度、表面積、クーロン斥力など古典力学的なものであり、 ミクロな要因とは、量子力学的な効果(殻効果)である。現在、自己無撞着一 体場の計算を通じて、β不安定な原子核の形状・密度等の系統的な予測を行っ ている。また、中性子の極端に多い核では、希薄で大きく広がった核子の雲 (ハロー)が出現することがある。これを正確に取り扱うために、平均場に対相 関を取り入れる方法の改良を進めている。
【専門】 やや詳しく言うと、エネルギーが負で原子核の周囲に局在した状態と、正のエ ネルギーを持ち原子核周辺に束縛されることなく無限の空間に広がって行きう る連続状態との間の結合を取り入れつつ、系の空間的局在を保つ解を効率的に (計算量が膨大で実行不可能な理論ではだめ)求める方法を、 Hartree-Fock-Bogoliubov解の正準表現のみを経由して求めることで得ようとしている。
また、もっと簡単な模型を用いた計算を系統的に行なうことで、なぜ、原子核 は偏長 (prolate) 形に変形するのか、扁平 (oblate) 形に変形する有限量子 多体系はあるのか、という古くからある問題を学部4年生の卒業研究に取り上 げたところ、興味深い糸口を発見できた。現在、さらに研究を続けている。
【注釈】偏長変形とは、地球を極軸方向に引き延ばした形、あるいは、赤道半 径を短くした形。例えて、レモン型、葉巻型、ラグビーボール型 と言われる。 なお、英語で Foot ball というのは サッカーボールのことで、球形の例えに 使われる(耳学問)。扁平変形とは、地球を極軸方向に圧縮した形、あるいは、 赤道半径を長くした形。実際の地球は、自転運動による遠心力のためわずかに 扁平変形している。例えて、パンケーキ型、(日本の温州)みかん型といわれる。 外国のオレンジは扁平とも偏長とも判別しかねる微妙な形なので orange shapeと訳してはだめと誰かが言っていた。なお、文献アーカイブで prolate, oblate を検索すると、原子核関連の論文と同数の、銀河の形状に関する宇宙 関係の論文がひっかかる。
修士課程の大学院生の研究課題として、核物質中の対相関の計算もおこなっている。 2000年度は非対称核物質(中性子と陽子の密度の異なる核物質)の対相関 強度の計算プログラムを作成した。 (それまでは、数値計算の主要部分のプログラムは移植性を考えて Fortran で 作成してきたが、学生の就職に関する希望をくみとり、これ以降、学生 との共同研究では C言語 を使用することにした。文献購読でもやはり就職を 考慮してなかばは英語の指導になっている。) 計算の結果、提唱されている相互作用(Skyrme force とよばれるタイプのもの) の多くが好ましくない特徴を持つことを指摘することができた。2核子の全ア イソスピン=1のチャンネルでは相互作用が密度とともに強くなる一方である と分った。対相関では凝縮対のアイソスピンが純粋に選べるので、このチャンネル の異常が純粋に取り出せたのである。2001年度は同種核子間の(アイソスピン 1の)対相関だけでなく、異種核子間の(アイソスピン0の)対相関をも取り入 れることを計画している。
【専門】
有限系と無限系では理論の道具だてが違うと書いたが、それに関連したことを
言うと、研究を始める学部4年生にとって障害となることは原子核分野では角
運動量の量子力学的な理解である。無限系では個々の粒子の状態を第ゼロ近似
として平面波にできる。平面波は波数ベクトルで指定できるので取りあつかい
は容易である。一方、有限系は空間のなかにまるくまとまっているため、その
中の粒子の状態の分類にはどうしても角運動量が必要になる。スピンと軌道運
動の角運動量の合成、2核子の角運動量の合成、角運動量の合成順序の組み替
え、などなど、波数ベクトルのベクトル和をとるのとはちがい、習得に日時が
かかる。ところが、対象を核物質に変えると、角運動量がほとんど要らなくな
るのである。要る式は少数なのでブラックボックスとして与えても許される。
なお、核物質の計算と言っても、中性子星だけにしか適用できないというので
はない。原子核の、かなり粗いが出発点として重宝な近似的記述として局所密
度近似というのがある。この近似では、原子核の各微小部分が、そこと同じ密
度の一様核物質の微小部分と同じ性質と近似する。核物質の計算は、原子核の
部分部分を計算することでもあり、さらに精密な計算の出発点として役立つ。
なお、局所密度近似は物性物理では非常によい近似であり、ノーベル化学賞授
賞の「密度汎関数理論」の主要部分である。
もう一つの興味あるテーマは、回転である。 原子核の多くは基底状態で変形しており、その対称性の破れを回復するため、 集団的な回転が起こる。原子核のユニークな点は、その有限性のため、回転が 非零の励起エネルギーを持つことである。これは、見方を変えると、異なる真 空がハミルトニアンによってつながるということであるから、実際に、それら を混ぜてみる(生成座標の方法)といったことも有限系では可能である。
【専門】現在のテーマは、奇々核において出現しうると言われるChiral doublet band について、回転を完全に量子力学的に取り扱う枠組でその構造 を明らかにすることである。観測されている現象は、以前からある signature quartet という概念でより適切に表されるのではないかと予想している。 (予想にとらわれず、研究は虚心胆懐に進めたい。)
この他に、学部4年生の卒業としては、原子核の質量公式関係の課題を与える ことがある。 【専門】 量子力学があまり得意でないと言う学生の場合、量子力学の習得にわずらわさ れずに、データファイル処理などを含むプログラムの作成実習ができる点が卒 業研究の課題としての利点であると思う。オリジナルな計算をするように課題 設定はしている(と信じる)が、論文にするほどの発見や成果はまだない。
最後に、原子核理論は、原子力発電とどのくらい関わりがあるのかと言えば、 素人が原子核という名称から予想するより遥かに薄い関係しかないというのが 本当のところである。全国どの大学院ででも原子核理論を専攻した人が、学問 の世界を去って民間企業に就職する場合、その就職先に原子力関連産業はほと んどなかったと思う。多いのはコンピュータ関連の会社であるが、これは理論 物理に共通のことである。
その理由は、原子炉の設計において、原子核について是非知っておかねば ならないことは、あるエネルギーの中性子がウランなどの原子核の基底状態に あたったときに核分裂反応のおきる確率だけだからである。これは実測値があ るので精緻な理論計算は特に必要とされない。
ただし、日本原子力研究所という巨大な国立研究所があるが、そこには原子核 理論研究者がいて、原子核理論の知識が必要とされる研究を進めている。近年 は、放射性廃棄物の消滅処理に関連した研究に重点がおかれている。消滅処理 というのは、放射性物質に、粒子加速機で高いエネルギー(1GeV程度・数値要 確認)に加速した陽子をぶつけて原子核を壊してしまうというもので、壊れた 原子核の破片が別の原子核を壊すという測定データのない多岐にわたるプロセ スの進行を予想するため原子核の理論が必要になるのである。消滅処理は、放 射性物質の消滅という実用と同時に、ハドロンの性質をさぐるための基礎物理 の情報を得るための実験にもなっており、そのことが研究を二重に推進してい る。
しかし、原子力産業関連の民間の会社において特に原子核理論を理解した人材 が必要とされるようになるという見通しは持てない。それでは、理論物理の他 の分野を専攻した者はどうかと言えば、例外的に「物性物理で現実の物質の構 造を(先述した)密度汎関数理論で計算するエキスパートの教授の研究室に所属 していた人が半導体関係の就職先で同種の計算を続ける」というようなという ようなことはごく少数あるだろうが、大多数は専門分野によらず理論物理一般 を専攻した者として就職先を探すことになると思っておくのがよいと思う。